杉本キクイさん(1898~1983)は、高田瞽女最後の親方として知られる、新潟県上越市(旧高田市)の文化的な象徴的存在です。瞽女(ごぜ)は、江戸時代から昭和期にかけて活動していた、盲目の女性たちによる旅芸人集団で、三味線を弾きながら民謡や語り物を披露することで生計を立てていました。キクイさんは、その伝統を最後まで守り続けた人として、日本の文化史に大きな足跡を残しています。

瞽女の背景
瞽女は視覚に障害を持ちながらも、歌と語りで人々を魅了し、地域社会と深く結びついていました。彼女たちは日本各地で活動していましたが、新潟県の高田(現在の上越市)は特に有名で、独自の「高田瞽女唄」として広く知られる文化が発展しました。厳しい旅を続けながら、村々を回り人々の心に語りかけるその姿は、生活に根ざした芸能の原点ともいえます。
明治34年(1901)の記録には、19軒の親方と89人の瞽女が高田の町に暮らしていました。

杉本キクイさんの生涯と活動
杉本キクイ(旧姓:青木キクイ)は、7歳で杉本マセ親方に弟子入りし養女となります。戦後、時代の変化とともに瞽女の需要は減少しましたが、彼女は伝統を絶やさないために努力を続けました。昭和40年代に多くの瞽女が活動を終える中で、キクイさんは歌い続け、その唄を記録する活動にも協力。民俗学者や研究者たちとの交流を通じて、瞽女文化を後世に伝えるための資料として多くの録音や記録を残しました。
こちらで「ごぜ唄」をお聞きください。
特に印象的なのは、彼女の声に込められた人々の悲喜こもごもの感情や、厳しい旅の記憶です。その三味線の音色とともに語られる物語は、ただの娯楽ではなく、人生そのものを映し出すものでした。
キクイさんの住まい
この杉本家には、初代マセ親方・二代カツ親方・三代キクイ親方が弟子と共に生活していました。この家は、彼女の生活を通して瞽女文化の一端に触れることができる貴重な場所でしたが保存が難しく今は取り壊されています。
現在、瞽女に関する資料は「瞽女ミュージアム高田」に展示されており、訪れる人々が瞽女の歴史とその暮らしぶりを感じ取ることができる空間になっています。
瞽女文化の継承
杉本キクイさんが最後の瞽女として亡くなられた後も、彼女が残した録音や映像資料を通じて、瞽女文化は語り継がれています。また、上越市では、瞽女文化を未来に伝えるための講演や展示会が開催されることがあり、地域の誇りとしての役割を担っています。
杉本キクイさんの人生は、困難に耐えながらも伝統を守り続けたひたむきな努力の象徴です。そして彼女が語り継いだ唄と物語は、現代の私たちに、日本の伝統文化の豊かさとその尊さを教えてくれます。